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2015年9月 9日 (水)

野田聖子前自民党総務会長は自民党の足を引っ張ろうとしたのか

自民党総裁選の立候補に必要な20人の推薦人の署名集めに最後まで奔走していた自民党の野田聖子前総務会長が最終的には20人の推薦人の署名が集まらず、立候補を断念した。その時点で安倍首相の総裁選での無投票再選が決定した。
自民党の次期首相の有力候補と目されている石破茂地方創生担当相の動向が注目され、石破氏自身も総裁選出馬に意欲を見せたことがあった。
ところが、【安保関連法案】の審議の過程での政府の説明不足や自民党若手議員のマスコミに対する恫喝発言が問題視され、内閣支持率が6月、7月と急落し、不支持率が支持率を上回るという逆転現象が起こった。だが、8月14日に【戦後70年の首相談話】を発表したことによって支持率が回復し、支持率が不支持率を上回る再逆転現象が生まれている。この支持率回復によって石破氏は立候補を断念したとされる。
政治の世界は【一寸先は闇】と言われているので3年後に石破氏への自民党地方議員の期待感が残っているかどうかは神のみぞ知るであろう。
3年後の石破氏の勝利は自民党地方組織に石破氏待望論が3年後にも残っているかどうかがポイントになる。石破氏が担当している地方創生が成就していれば石破総裁・首相は誕生する確率が非常に高い。石破氏は経済には弱いという評価を受けているので3年間でそうした評価を払拭する必要がある。
石破氏が出馬を断念したことから野田氏は出馬を模索し始めたのだ。野田氏の祖父野田卯一氏は戦後間もない1948年に大蔵事務次官(現財務事務次官)を経て、政治の世界に転出し、参院1期、衆院8期という経歴を持ち、その間に経済企画庁長官や建設大臣などを歴任した。
野田氏は1987年に祖父の選挙区であった岐阜市選出の岐阜県議会議員となり、任期途中で辞職して1990年の第39回の衆院選に祖父の選挙区旧岐阜1区から出馬したが落戦している。第40回の衆院選で雪辱を果たし、2期目の途中で小渕恵三内閣の郵政大臣に史上最年少の37歳の若さで抜擢された。この記録を塗り替えたのが小渕の遺児小渕優子氏である。
野田氏は首相3人を輩出している伝統ある派閥【宏池会】の流れを汲む【古賀派】(現岸田派)の領袖で、元幹事長の古賀誠氏に将来の初の女性首相と若き日より嘱望されていた。野田氏は郵政改革法案に反対したために自民党を離れ、第1次安倍内閣の時に条件付で自民党への復党を許されたという経緯がある。安倍首相に借りがあるのだ。
離党したという過去を引きずっているために野田氏の評価は下がり、女性初の首相候補に急浮上したのが小渕優子氏であったが、一昨年の【政治とカネ】問題の発覚により小渕氏の目もなくなりかけている。
再び元気付いたのが野田氏である。年齢がまだ55歳なので次の次の首相の座にターゲットを絞り、知名度を全国的に上げるために今回の立候補に執念を見せたのであろう。
野田氏は6日の時点では18人の推薦人の目処が立ったと野田支持を表明した尾辻参院議員に報告していた。とこrがそれをキャッチした安倍氏の側近たちは圧力をかけて推薦人になることを翻意させている。翻意したのは古賀誠氏の息がかかっている岸田派の議員が多かった。
今回の総裁選は【安保関連法案】の成立を最優先している自民党の党内事情から無投票再選という選択肢しかなかったのであろう。   (おわり)

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